好景気を謳歌した大正バブル時代は、残念ながらあまり長くは続きませんでした。
大正バブルが崩壊すると、日本経済は長期の低迷期を迎えます。
世界恐慌に直面した日本経済は完全に機能不全となり、軍部の介入と統制経済を招いてしまったのです。
昭和に入り、太平洋戦争が終結するまでは、日本の資本主義の歴史の中で、最も暗い時期と言えます。
しかし不思議なことに、日本が壊滅寸前まで追い込まれた太平洋戦争中、日本の株式市場は思いのほか堅調でした。
それは政府による株の買い支えがあったからです。
日本の株式市場には、PKO(政府による株価維持策)という言葉がありますが、PKOのスキームの多くは、戦時統制によって生み出されています。
日本はすぐに官製相場になりがちなのですが、この原点は、戦時中の国家統制システムにあります。
日本の戦時体制は形を変えて存続しているわけです。
■昔もあった構造改革派VS抵抗勢力の争い
この時代の最大の特徴は現在との高い類似性です。
第一次世界大戦が終了すると反動不況が押し寄せ、日本経済は長期のデフレに突入します。
デフレ経済に直面した当時の日本における最大の課題は、銀行の不良債権処理と、経済のグローバル化への対応でした。
第一次世界大戦と前後して、世界では技術革新や事業の国際化が進んでいたのですが、これについて行けない日本企業の経営が停滞してしまったのです。
経済ジャーナリズムの世界では、思い切った人員整理と企業のビジネスモデルの変革が必要という論調が出てくる一方、こうしたやり方は、欧米流のグローバル資本主義への迎合だとして、これに反発する声も高まっていました。
まさに構造改革派と保守派(抵抗勢力派)の争いということであり、現在の日本と驚くほど状況が似ています。
また1923年に発生していた関東大震災の影響が思いのほか大きく、日本経済は壊滅的な状況に陥っていきます。
結果として日本が選択した道は、国債の大量発行によるマネーの大量供給でした。
しかも、その財源は、日銀の国債直接引き受けによって賄われたのです。
大規模な公共投資や市場統制によって混乱は回避されましたが、膨張する政府債務によってインフレが進み、国民生活は苦しくなっていきました。
世界恐慌対策としてスタートした国債の大量発行は、やがて財政ファイナンスとなり、日中戦争と太平洋戦争でさらに際限のないレベルまで拡大していきます。
最終的には終戦直後、準ハイパーインフレという最悪の形で帳尻を合わせることになってしまいます。
◆昭和初期の経済・金融危機の際には、日銀の大量資金供給で景気と株価が持ち直したものの、次第にインフレでその効果が薄れます。
あくまで仮定の話ですが、当時と状況がそっくりの日本経済が、やはり当時と似たように推移するのであれば、現在の日銀の量的緩和策によって景気は何とか持ち直したとしても、インフレによって生活が苦しくなる可能性があります。